表現も言葉も、手放した先の広がりを信じたいものです。

どんな見方したっていいと思いますが

お芝居やコンサートを観に行くと、よく「私たちは、かくかくしかじかで、これこれこういうことを伝えたい」と説明されます。音楽でも演劇でも「こう見てください」「ここを感じてください」と。その手の話を聞くたびに思います。どうでもいいやんか、と。

どうして見方、感じ方を指示したいのか

正直、どうでもいいのでよく分かりませんが。あえて言うなら、自分とシンクロしてほしいのでしょうね。自分が感じていること、考えていることを理解してほしいと。ちょっと立場の上っぽい人(偉そうな人、有名な人)だと「私の意図が分かりますか?分からないのですか?ダメですねぇ」と見る人を上から目線でジャッジしているように感じることもあります。

答えを知っているのではあなたではない

作者なり演出家なり音楽家なり、発した側には発する理由があり、原因があり、意図があります。それを伝えたくて、知らしめたくて、認められたくてやっているのでしょう。それくらい猿でも分かります。猿は無理か。普通に考えれば分かります。でも、あなたが考えていることを客に正しく伝えることが表現の本質ではありません。伝言ゲームじゃないのですから。

押しつけがましいのはご勘弁

「こんにちは」というあいさつ一つとっても、受け取る側はいろんなニュアンスで受け止めます。「いつも元気だな」「かわいいな」と思うこともあれば「愛想ないな」「なにかあったかな」と見ることも。「この一言で私の意図を汲み取ってね」と言われても、そんなの無理。というかそこまで深く考えません。

なんで表現系の人はやたらと理解を求めるのか

意味を持たせたいから。どれだけ自分たちの表現が、芸術がすばらしいか、それを伝えたいから。共感してほしいから。それだけだと思います。ほんと。受け取る側にとっては「別にいいじゃん、なんでも」です。重ね重ね。意図通りに伝わらないことを悔やむなら、むしろ力量の無さを恥じたほうがいいと思いますが。

理解できないものを理解しようとも思わない

「このお芝居、なにが言いたいのだろう」と思うことはよくあります。ひらたく言えば「理解できない」「世界に入れない」ということです。そういうモノに限って作家や演出家の方がどや顔で語っていたりして「はぁ?」と思うこともあります。感じたままでいいと思っていますので、やたら見方や理解を求められると窮屈でつまらなくなります。

自分の手元を離れたら、自分のものではなくなるはず

子どもと一緒です。生まれた時から別人格。親のコピーでもなければ、親の理想を体現するための道具でもありません。「うちの子には、我が家の教育観を徹底的にたたき込みました」とか「スポーツの英才教育を施しました」という思いがあってもそれはそれ。子どもがそのまま育つとも限らなければ、周囲も「やらせすぎはよくないね」と思うかもしれないのです。

受け取る側にもっと委ねればいいのに

たぶん、思っていない評価をされるのが怖いのでしょうね。だから先に限定し、誘導する。もっと委ねたらいいと思いますよ。お客さんに。「そんな見方してくれるんだ」「ありがとう」予想外からさらに表現は深められると思うのです。

どうやって遊んだっていい。こうやらなきゃだめ、って決めないから面白い。

日常

Posted by densya