9年目の3・11に思う

9年前の今日、当時お世話になっていた和太鼓スタジオの太鼓教室の日だった。
独立1年目。週2回、貴重なレギュラーのお仕事だった。
あの時間は講習の真っ最中。
太鼓を叩いていて明らかに分かる違和感。
5Fだけど出窓のように張り出している空間。
ぐらんぐらん脳が揺れるような感覚は今でも覚えている。
キャスターの付いた太鼓がぐらっと動く。
大太鼓が転がってきたら、と思うとぞっとする。
慌てて離れた。
これはまずい。
指導をやめてスタジオの方の指示を仰ぐ。
会場は、埼玉県内の巨大アリーナの一角。
地震発生と同時に館内全館にロックがかかってしまった。
「安全が確認できるまで館内に待機してください」
生徒さんとスタッフの方と、2時間以上閉じ込められた。
携帯もつながらないしテレビもない。
なんとなく、東北で大地震が起きたことだけは伝わってきた。
やっと外に出たとき、うっすらと暗くなり始めていた。
最寄り駅に向かった。
とんでもない人込みだった。
どこかのモニターで、津波の映像が流れてきた。
ようやく状況が把握できた。
あれで埼玉は震度5か。
東北はどれだけひどい揺れだったのか。
想像もできなかった。
家族とは連絡がつかない。
息子の保育園はどうなっているか。
妻は勤務中か。
なにも分からない。
当然電車は動いていない。
タクシーはほとんど来ないのに大行列。
避難所が開設されている情報も入ってくる。
どうしよう。
家まではたしか20㎞くらい。
しかたない。
歩くか。
駅からは同じように歩く人たちがいた。
少しだけ心強くなった。
途中コンビニに寄った。
驚くくらい、棚はからっぽだった。
カロリーメイトかなにかとお茶だけ買った気がする。
路面店のガラスがところどころ割れていた。
排水管が割れたのか、水が湧き出している箇所がしばしば。
辺りはすっかり暗くなっていた。
なるべく大通りを、明るい道を選んで歩いた。
しばらくして妻の実家に連絡がついた。
子どもとともに家にいることが分かった。
それだけで安心。
あとはひたすら歩いた。
家に着いたのは日が変わるころだった。
直接的には何の被害もない自分でさえ、それなりの経験をした。
被災地の方々がどれだけご苦労されたか、想像はできても同じ気持ちにはなり得ないことが心苦しい。
心残りと言えば、抱えていた教室が年度途中で中途半端に終わったこと。
当時の生徒さんとも会えずにいることくらいか。
翌年の契約は更新していなかったので、その仕事は震災の日に終わることになった。
9年前とはずいぶん環境が変わった。
今はほとんど太鼓に触れることがない。
でも、突発的なアクシデントで状況が一変する点は全く同じ。
不安定さは相変わらず。
震災もコロナウイルスも、人の心に傷を残すばかりで何もいいことはない。
でもうつむいていても何も変わらない。
前を向くしかない、生きていくしかない。
亡くなった方の分までなどどいうのはおこがましいけど、
与えられた生命、与えられた役割はせめてしっかり果たしたいと思う。
どれも忘れられない公演。
そのひとつ、震災直後の熊本での保育園公演。
